センスよく生きようよ
著者紹介:秋川リサ

第28回

人は何のために生きるのだろう

亡くなった母のいちばん言ってはいけない口癖は、
「あんたなんか産まなきゃよかった」だった。
母の仕事が順調でなかったり、彼氏とうまく行かなくなったり、
経済的に苦しくなると、平然と私の前で言ってのけた。
今の時代なら言葉による子どもへの虐待にもなり、
毒母とも呼ばれるのだろうが、子どもの頃の私は、
(あーあっ、また言ってる)
くらいにしか思っていなかった。

私が反抗期になると(15歳で仕事を始めたので若干短めの期間)
「産んでくれってお願いした覚えはないわ。
勝手に産んだくせに、あなたが母親だってわかっていたら生まれてこなかったわ」
なんて、口ごたえをしていた。
20歳の頃、失恋した友人が、
「失恋ってこんなにつらいなんて、もう死にたいわ。
生まれてこなきゃよかった」
と言って泣かれても、
「生まれてきちゃったんだから、仕方ないでしょう。
お父さんとお母さんがセックスしたっていう証拠だってこと」
若い頃は、平気でそう言っていた。

愛があろうがなかろうが、男女がセックスをした結果、子どもは生まれる。
望まれてこの世に誕生する子もいれば、出来ちゃったどうしよう、仕方ない、産むしかないか、で生まれる子もいる。
そして、この世に誕生した瞬間からすべての生物は死に向かって歩きはじめる。
よく考えれば残酷なことだよね。
私がそのこと、死に向かって生きる人間を誕生させるってことは本当にいいことなのか?と本気で考えはじめた時は、すでに時遅しで2人の子どもを産んでからだった。
悩んだところで仕方ないと思いながらも、1980年代に流行ったDINKSという言葉に反して、私は子どもを産んだのだ。
ダブルインカム・ノーキッズ、つまり子どもをつくらない共働きの夫婦。
互いの自立を尊重し、経済的にゆとりをもち、それぞれの仕事の充実などに価値を見いだす結婚生活をいう(デジタル辞書引用)。

80年代は特にアメリカでの女性の権利はもとより、職業を選べる自由、働く自由が当たり前と主張できるようになってきた時代で、故にDINKSのような言葉もできた。
自分の人生、自分一代で終わらせるというDINKS生活を選んだ夫婦のその後は、夫婦ともどもビジネス的には大成功し、地位も向上し、経済的にもゆとりができると、夫は後継者が欲しくなり若い女と再婚、別れた元妻は子どもが欲しいと思ったら体外受精でしかできないという皮肉な現実が起きたカップルも多いと聞く。
もちろん、子どもを持つか持たないかは個人の自由だし、私のように子どもたちを産んでから、生き物はすべて死に向かって生きていくって、本当は残酷なことだと感じたからって、もう後戻りできないわけだが。

なぜ、人は子どもが欲しいのだろう。
動物的に子孫維持が本能の部分もあるだろうが、
「えー、そんなこと、考えていない。だって可愛いじゃない、子どもって」
と言う人から、血統を末代までつなげたいと思う人もいれば、
「結婚したら子どもが絆になるじゃない」
と考える人もいる。私が、
「でも、死に向かって歩かせるって、すっごく残酷なことじゃない?」
と言えば、
「そんなこと考えたこともない。
死ぬなんて考えていたら、なんもできないじゃない」
確かにそうだ。
ただ私は、キリスト教系の学校で育ったせいか、
悪いことをしたら、死後天国には行けなくなるから、常に正しい人間でいましょう的(正直 未だに正しい人間ってなんなのか、試行錯誤しているが)教育を幼稚園から約12年間受けてきたせいもあるのだろうか?
死というものが常に意識の中にあり、時には恐ろしさも感じていた。
そして60代になって、死が遠い存在ではないと実感すると、それほどもう長くはない自分の人生、人は何のために生きるのか?

私は子どもを産んだ挙句に死に向かって生きる人間を2人も誕生させてしまって残酷なことをしたと思いつつ、誰かに必要とされたいという私の人間的な欲望は達成されたのかもしれない。
そうね、人は誰かに必要とされたい。
仕事においてもそうだし、友人や家族にもそう思ってもらえたら生きていられる。
また、同僚、友人、家族とともに、成功や挫折、喜怒哀楽を共有することで自分の存在を自分自身で確認できるということは、その裏には孤独を少しは軽減できるという部分もあるのだろう。

人は何のために生きる?
生まれてきちゃったんだからしょうがないとそう思った時期もあった。
カトリック系の学校で育った私だが、正直、神は存在するかどうかは疑問だが、何かしらこの世に生まれてきた人間には神が与えたのか、宇宙の力が与えたのか役割があるのではないかと思う。
その役割で、後世に名を残すような偉業を達成する人もいるだろう。
百年後の歴史の教科書に載る人もいるだろう。
おこなったことによっては悪名で史実に残る人がいたとしても、そのことによって多くの人たちが襟を正すのであれば、その人の存在価値もあるのかもしれない。
だけど、ほとんどの人たちは偉業の達成も歴史上の人物になることも、ましてや悪名高き悪人にもなれない。
それでも生まれてきた一人一人に役割があるとしたら、この世に産まれてきて幸せだと思える時間や瞬間を共有共存、共感できる人とたった一人でも出会えれば、役割は充分はたしているのではないかと思う。
そして、どちらかが亡くなった時、残された相方は幸せだった思い出を誰かと共有するのかもしれない。
誰かに、私が生存していたことを覚えていてほしいという思いで生きてきた人の思いは達成できたことになる。

人は何のために生きるのか?
結論は出ないし、もしかしたら死の直前に初めて気がつくのかもしれないが、子どもたちから私の子どもで生まれたことは、次代ではお断りと言われないよう生きていこう。