センスよく生きようよ
著者紹介:秋川リサ

第8回

正義感

私が19歳のときのこと。
電車に乗ろうとして前に進んだら、隣の人に、
「荷物が足に当たった、謝れ」
と怒鳴られ、戸惑っていると、
「なんだ、その面は、謝れないのか」
と言われて、突然顔をひっぱたかれた。
男はそのまま違う車両へ、肩で風を切って歩いていった。

何がなんだかわからず、呆然としている私に、誰も見て見ぬふり。
それからは、電車に乗るのが怖くなった。

娘が高校生のときのこと。
同級生が電車で痴漢にあって、
「触らないでください。この人痴漢です」
と勇気を持って叫んだら、
「おまえみたいなブス、誰が触るか」
と言われ、お腹を思いっきり殴られ、男は次の駅で降りた、という話を聞いた。

娘は、
「突然のことだったから、みんなびっくりするのかもしれないけれど、誰も男を取り押さえるとか、車掌さんに知らせるとかしなかったんだって。
おばさんが一人だけ『大丈夫』って声をかけてきて、『警察に一緒に行こうか』って言ってくれたけど、友だちは悔しいのとお腹殴られた痛さで、『もういいです。大丈夫です』って言って学校に来て倒れちゃったの。
でもさあ、電車には男の人もたくさん乗ってるわけじゃない。日本の男って、正義感って持ってないの? 何かあったら、助け合おうっていう気持ちないのかな。
そうかあ、女だから男に守ってもらえるなんて時代じゃないんだね。女も自分の身は自分で守る時代ってことだね」
と言っていた。

その10年後、娘は埼京線で電車の中で、倒れる女性に遭遇した。
「埼京線って、駅と駅の間隔が長いじゃない。次の駅まで、結構時間かかるから、どうしようって、思って周り見たら、みんな、何事もなかったようにスマホやってんだよ。もう、って思って、倒れてる人に声かけたわ。
大丈夫ですか、って言ったら、ちっちゃな声で、貧血だと思います、って言うから、あっ、大丈夫、生きてる、意識あるわって思って、じゃ、次の駅で降りましょうね、って言って、立てますかって言ったら、私の腕握るから、揺れてる電車の中で共倒れするのもたいへんだから、誰か、席空けて手伝ってくださいって、言ったのに、みんな、隣とかを見回して、えっ、私がするんですかみたいな顔してるの。

もう、頭にきたから、結構力のありそうなお兄さんに向かって、そこのグレーのスウェットのお兄さん、席空けて、抱き起こすの手伝って、その隣のお兄さん、車掌さん呼んできてって言ったら、ようやく二人だけ動いたんだよ。

信じられない。でもね、なんかで教わったんだわ、前に、今の時代は誰か助けてって言っても、みんな無関心だから、あなたです、みたいに指名しないと動いてくれないってこと。本当にそうだったわよ。
しかもね、車掌さんが来て、『倒れている人の友人の看護師さんから、車掌に知らせろって言われたっていうお客さんが来たんですけど、お友だちどんな様子ですか。大丈夫ですかね』
私、『この人の友だちでも看護師でもありません』
周りにも聞こえよがしに大きな声で言ったけど、結局、他人だったら余計なお世話するなってみんな思ってんのかなと思ったら、なんか情けなかった。思いやりだとか助け合いだとか、口先だけの人が多いのかな。都会だからなのかな」

埼京線の乗客全員が都会人とは思えないが、失礼、でも都会人とか都会だから冷たいというのも違うと思う。
みんな、無関心を装うのは、人とどう関わったらいいのかを家庭や社会から教わることが希薄になったせいだろう。大家族だったり、いい意味での村社会の中に育ったら、自分の立ち位置というか、立場や状況を自然に周りから教えられる。

家族の長や親戚の怖いおばさんや近所の口うるさい親父に、子どもの頃から、ああだこうだと日々の振る舞いを注意される時代から、核家族が多くなり、個人主義だからと隣は何をしているかも無関心が時としてよしとされる昨今、何かあったとき、どう自分が振る舞えばいいかを身につけるチャンスがなくなりつつあるのかもしれない。

自分の振る舞いに自信のない人にとって、スマホは大いなる味方になってくれるし、動揺しているかもしれない内心をカムフラージュしてくれる武器にもなるのだろう。

私も新宿駅構内で友人と待ち合わせをしていたとき、改札口から今にも倒れそうになりながらふらふらと蛇行してやってきたおじさんが、ベビーカーの上に倒れこんだのに遭遇した。
ベビーカーは横倒しになり、1歳くらいの子どもが投げ出され、頭をものすごい音とともに打ちつけて、火がついたように泣いた。
倒れこんだおじさんは、泡を吹いて気絶していた。

ベビーカーを押していた母親のきゃーという叫び声に、一瞬通行人は足を止めたが、倒れたおじさんと泣く子どもを見て遠巻きにしつつ、何事もなかったように通り過ぎていった。
私と中年のおじさんが一人だけ、泣き叫ぶ子どもと倒れているおじさんに駆け寄ったが、 あとは誰も知らん顔だった。
「誰か、駅員さんを呼んでください」と言っても、誰一人足も止めない。
一緒に駆け寄ったおじさんが、
「僕が行ってきます」と言って走り出した。

母親がベビーカーを起こして、泣いている子どもを乗せその場を去ろうとしたので、思わず私は、
「とても強く頭を打ったみたいだから、病院に行ったほうがいいんじゃないですか? 駅員さんに救急車呼んでもらったほうがいいのでは」と言った。
「いえ、結構です。泣いてるし、大丈夫です」と母親は断った。
「でも、頭のことだから、それに後から何かあったときにも、駅員さん立ち会いで状況を把握しておいてもらったほうがよくありませんか?」
未だ泡吹いて気絶しているおじさんだって、故意にしたわけではないだろうが、こういう事故って、もし後遺症が出たりしたときに、その状況を現場の責任者とかが把握していないと訴えようもなくなる。
「急いでますから、結構です」
母親は余計なお世話と言わんばかりに、その場を去った。

駅員さんが来て、私と中年のおじさんから状況を聞いて、救急車も呼んで、泡を吹いていたおじさんは病院に運ばれた。
子どもが巻き添えになったことも話したが、立ち去ったのであれば、保護者の責任ということになった。一緒に駆け寄ったおじさんが、別れ際に言った。
「日本一乗車率の高い駅で、知らん顔か。冷たい時代だね、正義感なんてないのかね」

正義感って、悪をただす気持ちを貫くことでもあるが、道徳的な心情を優先するという意味もある。
よかれと思ってする振る舞いを、余計なお世話と受け止められることがあっても、私も娘も正義感がある人間でいたい。